氷点下のなか雪道を踏みしめ考える


Seurasaari, Helsinki
Seurasaari, Helsinki

小さい頃から向き合ってきたものというものは

季節が変わるように、時間の流れとともに変わる。

靴がどんどんきつくなっていくような

はっきり体で感じるような成長は分からないけれど

自分の心でかすかに感じた変化は、

自分だけが知っている小さいようで大きな喜びだ。

  

もちろん、続けて来たからにはやめそうになった事もあるけれど

嫌になって逃げたり、面倒くさくて放り出しても、人には

「最後にはやっぱり戻って来る場所」

という存在が心の中に必ずあるのだと思う。

小さい頃はなんだかんだぶつぶつ言っていても

自分が生きる場所はここなんだと最後には決心する。

今の自分の目標や考えは当時の夢とは変わってきているけれど

大事なものはちゃんと見失わずにここまで来れているのかなと思ったりもする。

見失った事はあったけれど

迷ったり悩んだり経験をして

「あぁ、これが分からなくなるという事か」という気づきがある。

 

 

ここに来た時に

「留学を終えた時に、夢が冷めてしまったような空虚感を味わうような留学生活は送りたくない。」

と心に決めていた。実際、

 

留学生活も、その前の生活も、その後の生活も

 

全部繋がっているのだから

全部一つの人生で、自分という一人の人間が過ごしている、色々なものが刻まれていく時間。

 

その時間を刻むために、既に敷いてあるレールに乗る人間は存在する。

 

 しかし自分の為のレールを自分で敷こうと思っても結局、

 

他人のレールに沿って敷いて、進行方向を見つけて安心する人もいれば

やたらと他人のレールと比較ばかりして優越感にひたる人もいるし

他人とは全く違うレールが良いと無理をして、脱線する人もいる。

レールなんかしかない人まで出て来たりする。

 

東京にいた時は、

ものがありすぎて、人もいすぎて

とにかくいろいろありすぎて

まぶしくて、盛りだくさんで

まるで何かに飽きる事が絶対にないように作られた世界。

本当に忙しいのか

心の平穏の為にわざと忙しさでごちゃごちゃにして紛らしているのか

よく分からない。

落ち込む暇もないほど予定が埋まっていれば人生楽しく過ごせると錯覚し続けられる

そう無理をしていたのか。

 

それも限界に達した時、自分を見失った時

自分は誰か、自分って何だろうっていう答えを見つかるだろうと、自分探しに留学をするのだ

と、そう思っていた。

けれど、今はそれは違うような気がする。

 

自分は

 

どこかに行って見つかるものでもなく

誰かに会って何か言葉をかけてもらって見つけるものでもなく

自己というのはどこかから何か探してきて取って付けてもしょうがなく

全てはじめから作り上げていくしかない。

自分自身が形成していくもの。

本当に自我が確立されている人間なら

「人と違う事がしたい」という理由で人と違う事をしたりはしないんだろうな。

そういう人にとっては、自分が

その他大勢と同じか、もしくは似ているか、埋もれてしまわないか」

と気にする必要など全くないのだから。

 

自分を見失っている状態も悪くないと思う。

それだけ違う面の自分が、

自分自身が無意識に作っていたかごから抜け出して、

解き放たれて一歩進もうとしているのかもしれないし。

さまよったからこそ出会えた道もきっとあるのだろう。

「やりがい」とか「達成感」という言葉にするとなにか違うけれど、

音楽をやっていく上での思いが少しずつじわじわと生まれつつある。