思いがけない事態も転機に変わる


Stockholm, Sweden
Stockholm, Sweden

自分が、いつか社会心理学や音楽療法を学んでみたいと考えるきっかけとなったのは、音楽をやめたくて仕方がない時だった。

 

なぜ音楽をやっているか分からない。

楽器に触れるのも、楽器が視界に入るのも嫌。

聴きたくもないし、考えたくもない。

 

音楽の存在を遠ざけ、自分の中から追い出し、離れようと必死だった。

そうやって、音楽に対してだけでなく、とにかく色々な事から逃げ続け、背を向けて、どんどんどんどん落ちていった。

全てに対しての恐怖から、やる気を失い、何に対しても反応しない、動揺しない、どうでも良いととらえる感覚だけが自分の中に残っていた。そして、そんな自分がとうとう空っぽになりかけた時、唯一自分が最後まで握りしめていたのは、あんなに避けていたはずの音楽だった。

 

そう、自分がたったひとつ続けてきたこと。それ以外は、もう何も持っていなかった。

 

そのとき、

音楽をやるという事は音楽がなければ生きられない、ということを悟った。

音楽が好きだから、という趣味の延長のような心構えでは決して続けられない、と覚悟した。

「音楽は、音楽が楽しいと感じなければいけない」という、妙な違和感の中でもがいていた自分は、逆にそれで少し救われた気がした。

 

それが、音楽が自分を救い出してくれた瞬間だったのかもしれない。

 

演奏会には大抵、音楽が好きな人、興味がある人しか足を運ばない。

音楽家には、いつでもどこでも無意識に「気がつけば音に触れている」くらいの感覚の人が多いかもしれない。

 

しかし、世の中には音楽なんかなくたって普通に生活している人がいる。

音楽が嫌い、聞こえてくるだけでイライラする、集中できない人もいるのだろう。

きっと音楽をやる事が楽しいままだったら、自分と違う感覚の人がいる事に気づこうとさえしなかったかもしれない。

 

音楽好きだけが集まって、弾く側も聴く側もお互い満足して楽しくやっているだけでは、発展がないというか、なんか違う。

もっと違う意味を見いだすべきで、限られた人種の中だけで、狭い世界に住んでいる気分になって、息苦しくなることがある。

 

もし、ある人が、本人は気づいていないけれど音楽の力を必要としている。

本当に音楽で助かるとしたら、その人にそれを気づかせる事ができるとしたら。どうやって音楽をやっていくべきなのか。

綺麗なドレスを着てスポットライトが当てられて舞台に立って、大曲を演奏して花束をたくさんもらって、拍手を浴びる。

それでは、きっとその人の救いを求めている小さな声には気づく事はできない。

手を差し伸べてくれる存在を求めていた昔の自分を重ねた。

 

大勢の前で自分自身を表現する事は、演奏家としてこれ以上の幸せはないと思う。達成感も大きい。

積み重ねてきた日々の努力や経験が形となった喜びもある。

 

しかし、演奏する上で大切なことは決してそれだけではないはず。

聴きたいと思っている人だけに、聴きたい音楽を聴かせる。演奏家の役目はこれで終わりではない。

 

「うるさい」とどなられ、文句を言われて、耳を塞がれる。

それでも、本当はその人が音楽に救いを求めていたとしたら。そうやって自分に疑問をぶつけて考えてみても答えは出ない。

そういう時こそ楽器に向かって音を出してみる。

 

私は正直、音楽が全ての人に受け入れられる事を目指してはいない。押しつけになってしまう気がして。

ただ、もっと広く、あらゆる人に対して音楽が存在することができたらと願っている。

 

そのために精進する事が、自分なりの音楽への恩返しとなりますように。