想像力をもって心を鍛える



最近のことをいくつか。

「創造する人」と「普及する人」がそれぞれで固まってしまうことで、うまく回らなくなっている

 

という話を聞いた。

幼いころからピアノを続けてきた。目隠しをされた競走馬のような育ち方をしてきたのかもしれない。けれど、表現を極める人は、その表現が広い社会でどう受け取られるのか、あらゆる人々にどう見られるのか、というところまで考える責任がある。それほどに、芸術は、社会に大きな影響を与える力を持つ。

「わかりやすく、わかるように…」ということを、いつもレッスンで言われてきた。

そもそも「わかる」ってなんだろう……という疑問。

疑問を持ち続けていることで人間は不安にもなる。

でも、わかるということについて、日常生活においても問うことが大切だと教えられた。

 

「?がたくさん広がる状態」でいる時間が、極めて短いと気づかされた。何でも調べられることによって、知らない、わからない、という地点に長居しなくてすむ。

 

「わからない」と思った時点ですぐに答えを見つけられることによって、パッと世界が広がったりする。ワクワクする。しかし、その一方で、想像したり、相談してみたり、頭を抱えて苦しんだり、そういったプロセスの大切さに気づくのは難しい。そして、単に「わかる」か「わからない」のどちらかでしか判断できなくなるのは、残念ながら自然なことなのかもしれない。
簡単に答えを探せるから「わからない」ままでいるわけにはいかない、というプレッシャーなようなものだろうか。「わからないと楽しめない」と思わされる原因は、きっと既に固くなってしまっているはず。

「わかりやすく説明すればいい、で良いの?」という問いかけが、欠けているのだなぁと教えられた。わかりやすく手っ取り早く教えてもらってしまったら、面白さに気づくことはできない。そうなったら、芸術にふれることに何の価値があるのだろうか。自らわかろうとせずに誰かにわからせてもらってまで教わりたいのか、という投げかけによって、歪んでいながら辛うじて形を保っている世界はギシギシと音を立てて崩れていく。

 


芸術においての「知識をのばすこと」と「感性をのばすこと」

 

の違いについて、考えてみる。こういったことを考えるという作業は、自分のその日1日を思い返した時に反映された。

「何が話されていたか、何を知ったか」といった、知識や情報をただ頭の中で並べていく作業とは違う。

たとえば「自分はどう感じながら話を聞いていたか」「映像を観たり演奏を聴いたりしたとき、どんな場面で刺激を受けたか」「美術館で作品を観て、どうしてあの作品に目がとまったのだろうか」といった、自分の感覚を確かめるような作業である。このプロセスには驚かされた。話を聞いたり対話することは、その空間と時間の枠の中だけで終わっているのではなく、帰り道の一歩やつぶやく一言にもきちんと繋がっているのだなあと。きっと当たり前のことなのだろうけれど、そんなことに久々に感動した。帰宅して頭を整理するとじわじわと何かが浸透していく実感。それまでの日常生活でできなかった時間の過ごし方だ。

留学先で音楽に没頭しているなかで不思議に思ったり戸惑ったりして、自分が「海外に出て来たのにうまく適応できないどうしようもない日本人」のように思えて落ち込んだことがある。でも、農耕民族と狩猟民族の特徴の違いが芸術活動と密接に関わっているという話を聞いて、きっと色々な理由が在って、その頃の自分はその都度、泣いたり笑ったりしていたんだなぁ…としみじみ思った。
「語学はできた方がいいけれど、語る内容がなければどうしようもない」というのは、音楽にも言えることで、演奏の術は高く持っていた方がいいけれど、語る内容がなければ、音そのものは生気を失うのである。
「生徒は、弾けるようになってから伝えるものを持てば良い。そうすれば弟子は自分を超えない」という先生が日本には多いそうだ。この話は、とても衝撃を受けたし印象にのこった。

音楽ホールに足を運んで見てみると、音楽について語られてきた言葉が立体的になる。ステージ上の舞台袖に繋がるドアを見つめてアーティストの心境を想像したり、客席に座って椅子の感じを確かめたり、通路を歩いて床の響きを体感したり……。そうやって、ホールという、芸術を心ゆくまで楽しむためにつくられた環境を肌で感じる。ホールの構造を知って愛着をもつことで、演奏会がもっと味わい深いものになる。

「若いころは、顔色をうかがったりやりすぎじゃないかと遠慮したりしないで、まずやってみる、という訓練をする。それで何か言われて傷ついても何年後かに役立つ。それは、つまり身に付くということ。傷つかなければ突き抜けられないし、何も手に入らない」という言葉を聞いた。

今の自分がこの言葉に出逢えたことに、感謝している。音楽に限らずあらゆることに当てはまる柱となる言葉。これから生きていく上で支えにしたいと思う。
「即戦力となる人材はたしかに必要だけれど、長い時間をかけて力となるものも軽視してはならない」という記事を読んだ。効率主義に走らずに、若いうちは無駄なこともたくさん知って体験することが大事、と教えられた。作業効率ばかり気にして、なんだかおろおろしてしまっていた自分は少し気持ちが楽になった。若い頃は役に立たないと思っていたものも教養となり、やがて自分を形成するものの一部となったその時、即役には立たないものに対する根をきちんと育ててきたことにきっと感謝するのだろう。

社会のさまざまな課題や疑問を含めて相対化するビジョンをもつこと。そういった、見抜く力や見極める力をもつことが「一人で生きる力」につながるのだと感じた。

「社会のお役に立つアート」は、多くなったように思う。役に立つか立たないかで芸術を評価され、それによって作品やパフォーマンスの価値を判断される流れは、芸術に直接関わっていない人たちはどう感じているのだろうか。


「新しいことをすることは、どこへ行ってもよそもの扱いをされ、中途半端だと思われる辛さがある」という話があった。絶対につぶされずに生き残るために、徹底的に調べて学習することが欠かせない、という言葉を忘れずに積み重ねていきたい。何か新しいことは受け入れてもらうまでに手間や時間、労力がかかり、なかなか簡単にはいかない。それでも何かを抜ければ変わると信じて、たどり着くまであきらめないことが大切なのだから。
「受け入れる」という受け皿を持っていることも必要だと学んだ。絶対に自分が受け入れ難いという表現や意見を否定せず、まず向き合う。違う立場の視点や感覚を冷静に見る訓練をつむことで、人がどれだけ化けるか、人を見抜く力が身に付く。

 

いろいろなものに目を向けて、考えぬいて、克服する。そういったことは、美術館で作品を鑑賞したり、ホールで演奏を聴いたり、劇場で舞台を観たりしている時に限らず、普段の生活のなかでこそ求められているのではないか。自分自身が持つ観察するアングルや追求する心をきたえることが、本当の意味の責任をもつということに通ずるような気がする。