終わりのないみち


撮影 小島桃子
撮影 小島桃子

 

前回書いた半年振りのエッセイから、また半年という時間がたってしまった。
幼いころ、父が若い頃に描いたという絵をみて、とても羨ましく思った記憶がある。
ものが残る、ということ。音楽は形にはのこらない
だから、自分からすすんで絵を描いたことは、多分ない。

羨ましいと思っていたはずの「残る」ことに対して、だんだんと怖くなる
文章にするのに、ストップがかかる
けれど自分の考えや感じたことは蓄積され、そのままではやがて苦しくなる
だからもう、考えたり感じないようにすればすむ
そんなことを思っていた半年。

その半年の間に、異分野とコラボレーションをする機会があった

今までのやり方と、つくりあげていくプロセスはやっぱり変わってくる
やっていくうちに、自分ひとりは「ふつう」であることを実感させられる。

学校でいい成績をとり
それでいい大学に入ることができて
それでいい会社に入って
それでいい条件の相手と一緒になり
そしていい子どもに育ててマイホームを買って
そこでいい老後を過ごす

「なんだか、ずいぶんと忙しい生き方。自分は違うな」

そう思ってきたはずなのに、自分はその「違い」と必死になっている気がする

何かを表現することを始めてから、
「自分はいかに普通か」ということへの、不安と向き合うことは続く

帰国すると決めたとき、本当は正直怖かった
少しずつ、でも確実になにかが遠ざかっていく

毎日、自分にも周りにも言い訳をしないとその日一日を終えることが出来ない
色んな理由をならべてみたけれど、どうやったって、必死に言葉をさがす自分はみじめだったのかもしれない

海外は、自分が思っていたよりもあっけなくて、
自分が日本に住んでいたように、そこでは普段の暮らしを続けてきた人々がいて
「特別なこと」を求めてやって来た自分を少し恥ずかしく思った
SNSを充実させるようなキーワードがごろごろ転がっているとしたら、

それはその国の、文化の、人々の、日常はきっと見えていない

 

意見として話していたつもりが、ほんとは全部が言い訳でしかなかった話を聞いてくれた人のやさしい表情
変化も進歩も無いのは、生活パターンではなく、自分自身なんだとハッとした瞬間
特別になんかなれない自分への焦り
頭が重くなって抜け出せなくなって、逃げるように気分を紛らしてしまった後の罪悪感

全てが自分に重くのしかかってきて、忘れないようにと自分の中に刻まれていくような痛み

強がったって、毎日何かに流されないように必死で、
携帯などなくたって生きていけると分かっていても使いたくなるし、

こだわりを持っていたはずのことが次の日どうでもよくなってたりするし、
SNSもいじってしまうけど、

全部まざって今の精一杯の自分だから、
なかなか正直じゃない人間だけど、正直に生きれるように、ちょっとがんばってみることにする。

よく分からない、まとまりのない文章だけどそのまま終わることにします。