自然から学ぶことが音楽に活かされる


 

なるべく目立たないよう生きる。

極端な人間にならないよう、人の記憶に残らないようにする。

なるべく透明でいようとする。

ただ面倒な事を避けようとし、人に迷惑をかけないように生きる。

目をつけられないように、印象に残らないように縮こまる。

 

そうやって、何かに対して常に「気をつける」。

 

世の中はそういう事に対して病名をつけたり何か名前をつけて、どこかのカテゴリーへ入れようとする。それに嫌気がさしている人間も、実はそうやって名前をつけられる事で自分が今どんな状態なのか、どの位置にいるのか他人に判定してもらい安心する。

 

けれどそんな事を考えたりするのは人間社会だけで、一歩自然の世界に入れば小さな事なのかもしれない。近所の湖へ行った時に、言葉が風に乗ってこちらへ舞って来るような、話しかけてくるような感覚になる。

湖の周りにそびえ立つ針葉樹林の木々を下から見上げると、背の低い木もしっかりとたくさんの葉をつけていて、高い木の隣でも堂々としている。

 

どんな人でも誰かと接することは必要。ただ自然の中で一人になる事も同じくらい必要なこと。

 

例えば、風の強さ、波の間隔と大きさ。これは時間、つまり人生の流れに通ずるだろうし、湖のほとりにひっそりとたたずむ石は、静寂をよりいっそう視覚的に強調する。石は生き物ではないけれどきっと冬の間じっとこらえているような気がして、忍耐という言葉がぴったり来るのではないかと思う。

木になっている小さい実や、大きさがそれぞれ違う葉の一枚一枚を目にし、人生に対しても早熟や遅咲きなどと言った言葉で表現されることをふと思い出す。人それぞれテンポや時間の使い方が違うのにも関わらず、周りから一方的に自分の人生に対して言葉をぶつけられ判断されたりする。

 

どちらがたくさんの葉をつけているか、なんて事も気にしない。

 

葉が落ちるタイミングも、そして実をつけるタイミングも、木と木がどうぞどうぞと譲っているような、木がお互いに様子をうかがっているように思えて、思わず微笑んでしまう。自然界で起きるその不思議なタイミングは、人間社会に存在するものさしで計ってしまったらなんの意味も持たないものになってしまうのだろうけれど、私は自然に会いに行く度に、絶妙なタイミングにいつもわくわくさせられる。

 

日本では北欧へ対して「のんびり、ゆっくり」のように遅いイメージというものが定着しているように思う。しかし、ゆったりしてる、おだやかというのは速度を決める言葉でないはず。北欧で暮らすようになって、時間の流れそのものが違うのだと、日々じんわりと実感しつつある。

緑の葉っぱが出て来たら花が咲いてやがて実をつけてという、植物の毎年のサイクルがあるように、人間にも先へ進む道と同時に心の中に何か循環するものがあるように思う。循環しているのは、元に戻るのではなく、意味の無い繰り返しでもない。少しずつ重なって行き、濃さを増していく。その深い深い渦の中に埋もれ自分を見失う人間は多いだろうけれど、渦巻く人生に自分を投入するのではなく、自分が渦を描くような感覚でいる事がきっと大切な事なのかもしれない。