音が紡ぎだされる空間


Sognefjord
Sognefjord

 

自分は、「練習しない人間」だそうだ。

練習室に籠るのは嫌いじゃない。世界中で一番落ち着く場所。

ピアノの椅子に座ると、やっぱり気持ちがしっくりくる。

 

ただピアノの向かって、当たり前のように楽譜を見て、毎日やっている事に対して疑問を持たず、指を動かして、次から次へと新しい曲を譜読みする。

それが一体何になるのだろう…なんて考え始めたら気がめいるから、誰かに電話でもする。その繰り返し。

それでいいのだろうか。

 

「なぜ練習するのか」「なぜ練習しないのか」

これを考えだしたら、もうとまらない。

「人はなぜ生きてるの」

「なぜご飯を食べるの」

「どうしてトイレットペーパーを買って、どうして毎朝ゴミ出しするの」

というところまで暴走してしまう。でも、こういうことは暴走でもなくて、子供の頃は自然と持っていた疑問。少なくとも練習の意義を考えることも、練習する上でためになるし、なによりこういうことって興味深い。

 

本当は練習しなきゃと頭の中では分かっているけれど、ひたすらずーっと練習し、訓練のようにやっているならば、

 

公園を散歩したりして、木の下に座ってみて葉と葉の隙間から見える空を見て、

「こういう景色って音にするならどんな音だろう。
 友達にこの景色を見せたかったら写真を撮ろう。
 でも目が見えない友達にこの景色を伝えたかったら、音楽で伝えるんだろうなあ、きっと」

と考えてみる。その景色が脳裏にぼんやりと残って、大学に戻る途中に色々考えながら、練習室に着いたら練習する。

自分の演奏を聴いてくださった人が、
「あー完璧ですねーミスせずすごいねー指もよく動くねーあんな難しい曲弾けるなんてやっぱりすごいだわー
いっぱい練習したんですねー。何時間練習したの? 偉いわねー」
と思ったら、きっと悲しい気持ちになるかもしれない。

自分の奏でた一音一音から、

心の奥底に閉じ込めていた悲しみを思い出して、涙がこぼれたり
誰かを思って苦しくなったり、温かい気持ちになったり
無償に泣きたくなったり
感謝する気持ちを思い出させたり

人がそんなふうに生きていける音楽を作りたい。

普段は忘れてる本来の人間の感情的な部分がわきでてくるような、そんな。

人を感動させる事って、実はぜんぜん大きな事ではなく、派手な事でもなく、喜びからの小さな心の震えだと思う。

そうやって、胸が熱くなったり涙があふれたりする。

自分がそういう音楽に巡りあえた時は、奇跡が起きたようだった。

それが自分の夢なのかもしれない。

 

音大生でいると、「学生」だから、スキルをあげる事にどうしても執着してしまう。

技を磨いてレベルをあげるためのプロセスは確かに必要で、その為に専門的な教育を受けている。

けれど、音楽は生き物で、魂が感じられなければ残念ながら芸術にならない。

 

聴き手が飽きないように強弱もテンポも適当に変化させて。

そういう演奏は、どうしても受け入れることはできない。

味気ないパンに、バターにジャムにチーズにごちゃまぜてつけたような。

 

どこかから取ってきて付けたり、

継ぎ足しして補ってごまかすのではなく、

本来の味を見つめ直すべきなのに。

 

ノーミスの演奏は「完璧」ではあるかもしれない。

けれど、感情が込もってない、魂が通っていない音楽に聞こえてしまう。

一流だと言われるアーティストの演奏会に行っても、失望して帰ってきた経験は、きっと誰でもあるはず。


勉強しているからこそ考えなければいけない事というのを話せる、意見を分かち合える友達がいる。

それはすごく幸せな事だと思う。
演奏会へ頻繁に行く訳ではないし、演奏の研究もぜんぜん足りない。真面目な学生とはほど遠い。

でも、勉強としてでなく音楽と真剣に向き合っていくために、自分の残りの時間のすべてを捧げたいんだなぁ。。

と、先日スーパ―からの帰り道、思った。

 

考える前に、意識する前に、常に自分の中にあるという存在。

音楽がその音楽家にとって生きがいであるならば、命をかけている音が鏡となって、生き様に全て映し出されるのだなと思う。

職業だったり、専攻だったり、特技どまりではない。人生そのもの。

自分の音楽を「作品」として客観的に見れる視点と、その作品を、人生を終える瞬間まで磨き続ける覚悟がなければいけない。

その作品とは、自分が音楽で生きて行こうと心に決めたその日から、一生の付き合いになるのだから。