一人の作曲家に出逢う


人というのは物事に対して、

内容の深みや濃さを問うことがある。

誰かとの関わり、勉強、仕事でもそう。

「中身のある人間」という言葉もよく耳にする。

それは会話の中で出て来る言葉や、取り組む姿勢、些細な表情から感じ取る。

 

でも外側と内側だけではない。

果物のように外の皮と中身とは限らない。

 

本来、地層のような積み重ねが人間の生き方のように思う。

たまに地面を掘るように自分の歩んで来た時間を振り返る。

地層の深さは、経験してきた量だけが比例する訳ではない。きっと色や角度や気持ちの温度や揺れもあるのだろう。

一日一日をどう生きて来たのか、その人の生き様が表れる気がする。

 

そんな事を考えていたら武満徹についての論文プレゼンの準備をほったらかしていた事を思い出し、慌ててとりかかった。そして武満についての本を読みながら気付いた事があった。

外身と中身としてとらえるのは、本当に人間的な考え方なのだと。

何かにふたをしたり、中に隠したりするのも人間。

 

今まで武満徹の事をよく知らないまま生きて来て、意識的に知らないでおこうとしていたところがあるかもしれない。正直あの繊細で気品があり、何かを秘めているような表情には惹かれていたのだけれど、彼の感性に触れたら、見透かされた様な気持ちになるような気がした。

 

それに音大の友人に武満好きが多くてみんな弾いていて、

武満を選んだら「やっぱり日本人だから武満好きなんだね」と言われる事に対して抵抗があった。

日本人だからやっぱり武満を理解しやすいの?と聞かれる事にもちょっとうんざりしていて、

そんなくだらない意地を張っていたところがある。

 

遠ざけていた彼を論文のテーマにしようと決心したのは、私が彼についてあまりに何も知らない、という理由からだった。合わなかったら他のテーマに変えてもいいし、とりあえず武満について友人に聞かれても恥ずかしくない様に、困らないようにという気持ちで彼について調べ始めた。そして作曲家でありながらエッセイストでもあったと知る。

 

"私は音楽というものを通して、人間が当面しているさまざまな危機的状況の中で「ちょっと待ってください。一緒に考えましょう」と言い続けているのです。だから、私の音楽は必ずしも楽しいだけのものではないだろうと思います。

音楽を通して、人間の生きかたというものを考える立場にある芸術家のひとりですから、ただ慰めや娯楽のためだけに音楽をしているのではなく、音楽という手段を通して、つねに人間存在について考えています。"  武満徹

 

「あ、もっとどんな人か知りたいかも。」

 

"Water"という章を開いて読み始めた。

 

彼は晩年都心の騒々しい生活から逃れるように、私の実家の近くにある湖の近くにあるアパートでひっそりと暮らしながら曲想を育んでいた事が書かれていた。

この章は、厳しい自然に囲まれた北欧での生活を選ぶと決心し東京を離れた時の心細かった自分を思い出させた。

私は帰国する度に、必ずその湖に会いに行っている。心が浄化されていくのを実感する。

やっぱりもうちょっと調べてみよう。」

 

そして"Water"を繰り返し読みながら、実家に遊びに来てくれた友人と一緒に湖畔を散歩したおだやかな時間を思い出した。

大学の図書館から借りて来た大量の本を積み重ねながら、普段は全く本を読まない自分が黙々と読んでいる。そうやって一人の作曲家を想像する。

 

自分の英語力は中途半端なのに、不思議と英語の方がスッと自然に入って来る。

日本語だとダイレクト過ぎて、まず自分の中に入れる前に確認するように一度考えてから、取り入れるような感覚。そう考えると外国語の方が意味を飲み込むのに多少の時間がかかるから、抵抗なく読めるという事なのかもしれない。日本語で読んだり言葉を交わすのは内容や意味が全て即座に入って来るため、つい身構えてしまう。

 

そうやって、日本にいる時より自分の歩幅で物事を消化できる様になり、

武満の音楽性や作品についても、単に情報や知識を自分の中に放り入れるのではなく、丁寧に植えるような気持ち。今後の自分の経験が視点の変化が水や肥料となり、「武満徹についての自分の心の中にあるエッセイ」が、彼の心に常にあった樹木や庭のように、少しずつ茂って成長していく事が、小さな楽しみである。

 

武満のおおげさでない、飾らない透明感のある言葉も同じように、心に刻むような気持ち。「心に刻む」という言葉の意味を、武満の世界を知ってからようやく少しずつ掴み始めた。

 

彼の初期のピアノ曲を聴きながら感じる。

 

「水にも風にも空気にも

 

外と中、表と裏など存在しない。」

 

自分が演奏する音楽の全てが、最初に外側を作って後から中身をつめていく感覚になってしまっていないだろうか。

音や音楽にはきっと外枠のような何かが存在して、中に綿を詰めたらはい完成。そういう風に曲を仕上げてきてしまった自分がいた。

その綿は詰められるだけ詰めようとするから、たくさん詰めるほど味が深く、色が濃くなっていくような錯覚になる。しかし、そういう音は聴いているうちに息苦しくなる。

 

最初に譜読みで音だけ追っていって正しい音を鳴らす(間違えずに最後まで通して弾く)という「空っぽの状態でただ楽譜通りという状態」で枠を作る段階へ。

音色を作る事で中身がある音として、外も内も出来上がったから問題ないと考えてしまう。

その後に音色を考えたりキャラクターを考えるという音楽の作り方は、自然からインスピレーションを受けた作品などには通じないように思う。人間臭さがにじみ出るような作品にはふさわしいかもしれないけれど。

 

優れた作品や美しい旋律は、なぜその存在自体が素晴らしいのか。「人工的な何か」が芸術作品に変わる要素は何なんだろう。

 

しかし、

もし音が、空気中に漂う香りだとしたら。

フレーズが、どこにいっても終わりのない、境もない海だとしたら。

 

自分はまだ、やっぱりどこか外側にこだわっている。