咲くための支度


しばらく体調を崩していたおかげ?で、ご飯が食べられる、外出できる、声が出る幸せと有り難みをかみしめております。

せっかく復活してきたところで、姉はまたノルウェーと戻っていってしまいました。

体が弱っているときって、不思議と「生きる力」を感じるもの。元気なときは気にもとめないことにいちいちつまずいて膝をすりむいて、立ち止まって同じところをうろうろするんです。
そして、寝込んでいたとき色々考えていたことが、思い出せない。書きとめる体力があればなぁ、でも忘れてしまうことって、もったいないことでしょうか? 消えていってしまっても、まぁいいじゃない。きっといつかまたひょっこり顔を出してくれるはず。
結局、書くつもりだったこととまったく違うことを今こうやって書いている。不思議な感覚です。

 

迷いに迷った末に決心をし、今月末で今の職場を退職することに。

ここは、素朴な刺激と、柔らかすぎない優しさを教えてくれる場所。

とっても構ってほしそうに放たれる言葉と、一人でつぶやくように宙を漂う言葉とかいろいろ毎日聞こえます。

電話のむこうの誰かとやり取りする、床に響く笑い声。それぞれ、テンポと音の高さが違っていて、色とりどりの野菜みたい。

 

この仕事で大切にしようと心がけてきたことは、一人ひとりのお話を「聞く」こと。ごく当たり前のことだけれど、毎回難しい。

お話からは多くの学びがあるけれど、 もっとも心を打たれたお話の多くが、テーマから逸れたから誌面には載せられなかった部分。

そこに価値があるんだなぁと、原稿を整理するときは静かな感動があります。


声を発する、音を出す、ということは「常に先を見る」ということ。消え入ってしまう音と向き合うとき、今鳴っている音と、過去に鳴っていた音の存在を感じながら、これからの音を出す準備をする。
それは、何か行動をするときに「いったい何の意味があるのか」と自分に問いただすことに通ずる。

心で表現するには、心だけを磨いていれば良いわけではない。技術も必要ということを改めて最近教えられました。

はぁ…練習せねば、と楽譜を開いてみるけれど、気合いを入れて折り目をつけただけ。

 

桜が散る前に、せめて1曲は譜読みを・・・