実際に体験する価値


 

■音楽の世界へ、ズボズボっと足を踏み入れてみた


小学生のころ、男の子にピアノを習っていることをからかわれた。
音楽の学校に入って見返してやりたい。それは「音楽をやりたい」という純粋な理由ではなかった。しかしそれによって、それまでなんとなく鼻歌気分で弾いていた自分に火がついた。
そしてかれこれ10年以上、音楽学校に身を置くこととなる。
今ではその男の子に感謝している。
 
■「生のものに触れる大切さ」を訴える


音源や映像は、繰り返し再生されることを想定されて作られている。

二度と同じものを繰り返すことのできない生のパフォーマンスとは対極にある。

例えばライブでは、
一緒に熱唱する
ひたすら動画や写真を撮る(日本ではダメだけどネ)
じっと聴く
熱気に酔いしれて叫ぶ

それぞれ違った味わい方をしているけれど、みんな体験する内容や時間は平等に同じ。

舞台側にとっては、やり直しのきかない緊張の瞬間、その怖さが作品づくりに直に反映される。
悔いの残る結果ではあれば、それも含めて自分の中の記憶に残っていく。

なんというか、どんなに機械の性能がよくなっても、それで生を超えるとか、そういうことではないのだと思う。
 
○匂いそのものだけでなく、その流れ・漂い方
○空気(緊張感、心地よさ、熱気とか)
○震動・振動(壁や床に響いていることを体感する)
○良い部分をトリミングするようにアングルやタイミングを選べない「生の作品」に、死角は存在しない
○心地良いように、楽しいように、不快でないように、決して飽きないように、手を加え処理されたものを、受け取る側が「調整」をして味わっていることは、誰かにコントロールされた状態に感じることがある。元のものから遠いどこかに行かされてしまったような…


実際のものに触れる体験は、強い記憶として残る音楽による体験にかぎらず、それは旅の体験などにも言えることだと思う。
生の演奏を聴くこと、自然に触れること、本を読むこと、人と会って時間を共有をすることが少ない現代人のライフスタイルは、創作活動へ少なからず影響するということである。

 

●生を体験することは、自分で判断する目を育てる
便利であるということは、時間もかからず効率的。けれど、自分の目で素材の質感や色、形、大きさなどを確かめること。

詳しいか、見る目があるか、ではない。自分とそのものとの関係は、ランキングチャートや専門家の言葉からは見えてこない。自分にしっくりくるかどうか、それとまず一対一で向き合ってみる。そんな長い時間は必要ない。姿が見えない大多数の意見に気がつけばうんうんとうなずいて、それに従っているうちに自分の手元が埋め尽くされるって、ちょっと恐ろしく感じることがある。

価値判断をするのに、迷う・悩むプロセスは重要。言葉で表せないような自分の感覚が少しずつ確立されていく。

●生を体験することは、知らなかった自分に出会う
子どもの頃、勉強することというのは、

 

①学校で勉強すること

②通っている習いごと

 

という感覚ではなかっただろうか(少なくとも私はそうだった)。

世の中のあらゆるものがカテゴライズされているみたいな、まるで視界一面に境界線や目盛りがひかれているような感覚をもって子どもが育っていくのは、もったいないと思う。

例えば、国語や算数のような「学校で習うこと」の全てが苦手な子どもが、ある時なにか(音楽でもアートでも演劇でもなんでも)を生で体験する機会を得た時、学校では見せないような表情や反応を、その子どもから引き出せるかもしれない。日常の中にも可能性はある。学校や家ではほとんど口を開かない男の子が、買い物に行った時にお店の人に話しかけた、とか。きっとその男の子はお店という環境に出会うまで、自分が誰かに心をひらけることに気付かなかったかもしれない。

 

どんな環境でどんな可能性が生まれるのか、というのは何も決められていない。

●生を体験することは、様々な価値観に触れる
生を体験することは、

新しい世界に初めて足を踏み入れることと同じくらい大きなこと。

外国に旅行に行くこと、新しい街で新生活を始めることと同じくらい勇気のいること。

 

はじめてスポーツ観戦に行ったとき

はじめて歌舞伎を観に行ったとき

はじめて美術館に行ったとき

はじめてライヴに行ったとき

 

雰囲気や人々の様子が違うことで、戸惑ったりわくわくしたり。それぞれの舞台で活躍している人が全力で取り組む様子には、何かしら訴えかけてくるものがある。自分の目で直に触れることが一番。

実際に見てみたところで、やっぱり興味を持てなかったらそれで良い。全てに対して意欲的になる必要はないのだから。
 
■パフォーマンスをするために必要な要素


●鍛錬を積む
技を磨く、という行為は、どの分野でも楽ではない。そして、だいたいが地味で、個人活動である(団体競技でも、個人が腕を磨いていてこそ成り立つ)。そして、結果・成果を求められる時(本番)のほんの一瞬だけ、人前に姿を現す、そこに価値がある。どれだけ努力したか、ということを感じさせないほど、表には出ないほど美しく、プロ意識の高さを実感させられる。
そういったことを、まだ幼い頃から始めるのは簡単なことではない。学校では浮いたり、周りの子と同じような生活スタイルでは学校との両立は不可能である。けれど、そういう子どもへエールを送りたいという気持ちがある。
多くの人が、小さいころやっていた習いごと(受験では役に立たないとされるもの)を受験のタイミングでやめる。

塾に行き始めて時間がないから、

受験に集中するため、

周りもそうだからなんとなく、という流れからかもしれない。

けれど、それだけ思いや願いを注いできたものを、特に理由もなく時期が来たからやめることができるのは、特に理由もなく始めたからという声も聞く。なんとなくやらされたものに対してはやめさせられる時も特に抵抗をもたない、というのはなんだか悲しい気持ちになってしまう。
 
●孤独と向き合う
学校などで、自分が内向的だと感じている(感じさせられている環境が多い)子はどのくらいいるだろうか。いじめられているわけではないけれど、友だちが全くいないわけではないけれど、どこか孤独を感じている。授業より休み時間の方がきらい、という子どももいるかもしれない。
学校などの環境では、どうしても集団行動を求められ、相談・話し合い・他人の同意を得ることが必要とされることが多い。必要以上にそれが求められすぎている。それによって、個人創作をする大切さが薄れ、それぞれのセンスが一つに束ねられる。そういうことに対してなんとなく抵抗や違和感を子どもの時から持ち始めると、大人とはまた違った苦しみを味わってしまう。
何かを極めるのに、孤独は不可欠な要素、ということを忘れてはならない。

●循環する感性と、人間関係
人が何かを生み出すには必ず「要素」が必要。インスピレーションや、何かしらのヒントやきっかけである。それ無しに、突然何かが理由なしに生まれるということはおそらくない。

 

その「要素」を得ることを、私は恵みだと思っている。

恩恵を受けたら、今度はそれを素に何かを生み出すことが恩返しになる。

そうやって「還元」することを繰り返していく。生き方は循環する。

 
人間関係もきっとそう。人と出会う・知り合うこと、そして話を聞いて学ぶこと、作品やパフォーマンスを観て感じること、どれも全て大切なこと。けれど、なんとなく「つるむ」ことはちょっと違う。
人と会えば会うほど、自分自身と向き合う時間が必要となってくる。人との関わりが多いほど、一人で考える時間を大切にする。
他の人との繋がり方を見つめなおすことは、これから先歩いていくための道しるべとなる。