この冬、住んでいた街オスロを訪れた。
コンサートについてはちょこっと書いたり写真を載せたりしているので、
素敵な人達のおかげで過ごすことができた「良い時間」について書くことにする。
短いひとときだったけれど、自分がこれからまた生きていく心の支えとなる時間。
久々に会ったある友人は、大学院に通いながらアルバイトをしている。
さらに、自分が心から関わりたいと思う活動のためにボランティアをしている。
ボランティアは行動ではなく、心なのだ。
当たり前のようで、それを体現するのは簡単ではない。
震災のチャリティーコンサートのときにオスロで知り合った友人。
次に彼女に会ったのは仙台で、今回またオスロで再会し、
彼女は愛らしい女の子を持つ一人の母親になっていた。
世間一般の子育てみたいなもので考えれば子どもに「ダメ」と注意することを、彼女はまず肯定してみる。
自分の子に、経験させ、体感させている。
子どもは自分で、あれ?おかしいな?と身体のどこかで気づいたり、痛みを感じたりする。
答えを教えてあげるよりも、答えを実感してつかむことを望んでいる。
それは時間もかかるし、親としての立場で恥もかく、心配も多くはらはらする。
良い母親になろう、じゃない。子どもの「ため」なのか誰のためなのだろう、と。
周りに良い母親だと認めてもらえるように。
自分はちゃんと良い母親に見えているだろうか。
その圧力がかかるほど、子どもの声はどんどん聞こえなくなる。
どうしたら、友人はこんな自然でいられるのだろう。
彼女が見つめる先にいるのは、
植物のようにノルウェーのおいしい空気と水ですくすく育つ、
ちゅーりっぷのような幼い女の子。
大学時代の友人と、通っていた大学近くのカフェで待ち合わせ。音大生が集うたまり場になっている。
私は雪でトラムが遅れると思ってちょっと早めに家を出て、友人は少し遅れてやって来て、メガネがくもって、ふふっと笑う。
雪がしんしんと降っている。
席が空いてないので、友人の行きつけの小さなコーヒー屋さんなら空いてるかも、ちょっと歩くけど良い?
雪道を、また歩く。
交わす言葉は、多くない。
立ち止まって、車が通りすぎるのを待つ。信号が赤になると、足を止める。その時に、何かボソッと言う。
うんうんってうなずいて、信号が青になったらまた歩く。
コーヒー屋さんに着いて、店員さんにケーキもあるよとすすめられる。
でも不思議だ。どうしたらそうなるんだろう。どれひとつとして同じサイズにカットされてない。
そんなに切るのが難しいはずはないんだけどなぁ、と思わず笑ってしまう。
美味しいコーヒーで冷えきった身体も温まって、
帰ろうか、という言葉は言ってないけれど、
お互いにニット帽をかぶって、マフラーをぐるぐる巻いたあと、手袋をはめる。
帰りにトイレに行ってこようかなぁと私が言うと、
トイレならむかいの食材屋さんにあるよ。
え、あ、そうなの。
店の外に並べて売っている野菜には、けっこう雪がかかっている。この野菜たち売れるのかな…と思いながら店の中へ。
トイレを借りても良い?と聞くと、奥を指さしてから「行ってらっしゃい」って感じで手を降るレジのおじさん。
牛乳やヨーグルトが置いてある冷蔵室を通って、迷路のような廊下を進んで、少し階段も上って、ようやくトイレにたどり着いた。
久々の、こういう面白い感じ。
以前に、あと5分くらいで閉まってしまうっていう時間にカフェに入って、
「通りを一本入ったところを曲がったカフェだったら開いているよ、私のお気に入りの場所だから」
と教えてくれた店員さんがいたことを思い出した。
仕事が忙しい友人と、ほんの30分だけ会えて、じっくり話すことはできなくても、
友人にも今の暮らしがあって、それぞれの人生が意志をもって進んでいることを感じた。
昔の友達のなかには、会わなくなってしまった人もいるけれど、すべてがそれぞれにとって出会いとなって、今の自分たちを形成している。
続いている友達だけが友達として残っている、ということではないのだろう。
本屋さんで働く友人は、とても本を読む。
日本の本、ノルウェーの本、世界の本。
どんな本が日本語に訳されていて、どんな本がノルウェー語に訳されていて。
文学の話になると、友人は熱くなってさらに早口になる。
日本の小説家について、こんなに詳しいノルウェー人がいるんだと驚かされる。
会おう会おうと言って会わないで過ぎていくことって、誰にでもあること。
周りにいる全員に常に会うことなどできないし、
そういう生活をしている人がいたら、それはそれで少し心配になってしまう。
会うことは目的にならない、ゴールにはならない。
人は、出会うことそのものを目的に生きているんだろうか。
きっとまだあるはずなんだけれど、眠くなってきたので、ここでいったんおわり。