気持ちが大きく揺れてはその揺れに耐えようとする自分がいる。
必死に抵抗し、しがみつき、よろめいてはならないと意地になる。
しかし、時にはその波に身を任せてみるのも必要な事。
そうやって、自分の中の芯がぐらつかないか試されている感覚。
そう、試練を与えられ、自分がだんだん確立されていく。
そうやって、周りに人はいても、いつも一人で歩き続ける。
誰かが追いかけてこようとすると、声をかけようとしてくれると、逃げてしまう。
周りに人がいたら、自分がなくなってしまうような気がするから。
人の優しさに触れたら、自分への厳しさを失う気がする。
でも、それは自分に自信もなく、自分という人間を持っていないからなのかも。
人前で演奏する事は、決して簡単ではない。
演奏する事は、話す事、文章を書く事と同じように自分をさらけだす。
不安はもちろん、戸惑うこともある。
女優は、自分というフィルターを通して誰かを演じ、小説家は物語を伝える。
そういう時に自分を偽る事は決して出来ない。
演奏中に言い訳も出来ないし、そのまま音楽に表れる分、普段の自分は必死に隠し、距離をとって生きて来たのかもしれない。
自分が社会でどのような働きをするか、この世の中にどう貢献するか。
今まで考えてはいたものの、留学4年目で考えているだけではいけない時期に。
色々な国の人々と知り合うと、
育って来た環境、
金銭感覚、
価値観、
物事の考え方・捉え方・視点
が違うことで、色々な事に気付かされる。
その度に、刺激を受けたり影響を与えられたりする事は多々あっても、それをそのまま自分の事柄に取り入れたり鵜呑みにしたりしてしまうのは軽率に思える。自分の状況に当てはめても、表面だけのこだわりに感じてどうもしっくりこない。
4年目にもなると、日本に帰るのか、ここに留まるのかという事を聞かれ、「二択で判断されるのか」と思ったりもする。
究極、どこでなんてことは実は大した事ではなく、どこでも生きていける人間にならなければという覚悟があった。
日本を飛び出したから、語学や専攻はもちろん大切だけれど、自分自身を取り戻して、元に戻るのではなく前に進みたいと願っていた。
適応性、柔軟性、その環境で埋もれない自立心が、留学生活・海外生活で育まれたのならば、その地で得た事を活かす事に義務はなくても、意義があるのではないだろうか。
自分の満足や快適さを追い求めるのは、将来やろうとしている事と矛盾している気がして、居心地の良い場所にいて良いのだろうか、という疑問が何回もグルグルとしていた。
吹雪の中ひたすら歩いた。降り止まない雪が肩に積もっていく重みを感じる。
こうやって果てしなく悩まなければいけないのかと想像し息苦しくなる。
苦しさはより深くなっていき、22年間を必死な想いで生きてきた事、さらに人生が続いていく事に対して、一瞬でも絶望さえ感じた。
どんなにやっても終わりがない、どこまでやっても足りなくて不十分で、何かで自分を縛っていた。
けれど、やがて雪は止み、積もっていた雪も溶けてなくなり、あぁ…こうやって永遠に続くかと思う事にもいつかは終わりが来るのだと思った。
焦りと不安が涙と混ざり、今の立ち位置があまりにも不安定で、着地点を探そうともがいている自分の姿が惨めで、心細さしかその時の自分を表すものはなかった。
1ヶ月後に23歳になって歳を重ねるけれど、自分を失っては見つけ、またぐらついて、そんな人生は苦しいのかもしれないけれど、苦しさを自覚する度に不思議とそんな自分の人生と少しずつ向き合えていっている。
その人生に関わって下さっている全ての人々に、心から感謝している。