日本人に必要な究極の癒し


この夏、以前一度訪れた事のある友達の実家を訪ねた。

 

オスロに住んでいる友達は、家に帰るのが本当に嬉しそうだった。オスロから電車で2時間ほどの町。人口約5千人。

 

友達曰く、ノルウェーは世界で一番水が美味しい国。そして更に、この町はノルウェーの中でも一番水が美味しいらしい。確かに水道水を飲んだ時、一瞬だけだけれど体が潤ったような気がした。

「オスロは人が多くて怖い」と言う友達にびっくりしたけれど、あまりにのどかで、そう思うのも当然だなと納得。

私にとっては、オスロも十分のどかで落ち着くけれど。

 

以前訪ねた時に会った友達のひいおばあちゃんは、残念ながら亡くなってしまった。同じ町に住んでいて、老人ホームのようなところで生活していた。しかし亡くなる数ヶ月前まで一人で暮らしていたというから驚きだ。

 

老人ホームといっても、部屋は個室で、お風呂もトイレもプライベート。

部屋は決してすごくはないし質素。だけど、清潔感があり品がある。

共用スペースも、やっぱり日本のそういう施設とはどこか違う。

 

一人の時間と、周りの人との共有時間を上手くとれるように考えられている。

「歳をとったから、ここに連れてこられた、ここで生活せざる得ない」

という感じがまったくしなかった。

みんな表情が自分らしくて、強制されていなくて、なんだか私より活き活きとしている気がした。

 

ひいおばあちゃんは、足が悪くて一日中同じイスに座っているだけでも、素敵なブラウスを着て、前髪をピンで止めて。

のどが弱っていて声があまり出せないけど、ひ孫(友達)の話を嬉しそうに聞いて。

そんなひいおばあちゃんを見ていたら、なんかちっちゃい事で色々考え込んでいたのはなんだったんだろうと。

 

私もあんな素敵なおばあちゃんになりたい。これからの人生、素敵に生きていきたいな。

なんだか、そう思えた出会いだった。

 

ひいおばあちゃんの娘である、おばあちゃんは母親に毎日会いに来て、話をして、接している。

 

「見舞い」ではない。

見舞いに行くという感覚で会いに行く人が行けば、待っている人もそういう気持ちになる。

 

おばあちゃんは孫(友達)の事を気にかけて、編み物を教えている。お茶の時間には一緒にトランプをして。

その横でおじいちゃんはラジオから流れて来る懐かしのナンバーを聴きながらウトウトしている。

友達と一緒におばあちゃんの家に朝おじゃました時は朝ご飯にシナモンロールを焼いてくれ、夕方に再びおじゃました時は美味しいケーキを焼いてくれて。

老人ホームからおばあちゃんの家に向かう時も、友達の車で行く私達の横を、おばあちゃんは自転車で追い抜かしていく。

どれだけアクティブなんだ。

本来なら若者の私達が自転車で、おばあちゃんが車であるべきなのにね。パワフルすぎる。

 

シャイで静かに新聞を読むおじいちゃんと、明るいおばあちゃん。

微笑ましいカップル。

そんな、おだやかな週末。

 

そんな素敵な週末を過ごしてから早1年がたち、またこの町を訪れた。

 

川へ水浴びに行って、道を歩きながらそこら辺にあるイチゴを採って食べる。

野生のイチゴは甘酸っぱく、店に並んでいるイチゴにはない「生きた」味がする。

アイスクリームをお店で買って、お店の裏へ廻るとそこは本当に一面緑が広がっている。私たちはりんごの木の下にあるベンチに座った。

時間を気にする事もなく、携帯をチェックする事もなく、ただアイスが溶けないうちに食べようと必死にほおばった。

食べ終わると、どこからかカランコロンと何かの音がして、「携帯はおいてきたはずなのに何の音だろう」と思ったら、首に鐘をつけたヤギがこちらへ近づいて来る。

柵もないけれど特別、人間に興味もないらしく、ただそこら辺の草をひたすら黙々と食べている。

 

友達の実家に戻ってきて庭のベンチにマットレスを敷く。

1時間、いや2時間ほど昼寝。

 

音楽を聴きながら、青く澄んだ空を見上げた。