曖昧なままでも、それで良い


雨が降る日曜日。

 

部屋にある、水をあげ忘れた植物はしおれ、全ての葉が悲しげに下を向いている。

窓は雨の雫で濡れ、曇りガラスのようになり外の世界はうっすらとしか見えない。水滴がしたたるのを見て、こらえていた涙がまばたきでこぼれ落ち、自分の視界がぼんやりとかすんでいく。

 

小学生のころ、自分のメガネをつくりドキドキしながら初めてかけた時に、がっかりしたのを今でも覚えている。今までモヤっとしていてよく見えなかったものがくっきりと見えてしまって、なんだか興ざめしてしまった感覚。それまではどんなものが自分の周りにあるのかなんとなく想像して生きていたからだ。

 

言っている事がよく分からないと言われる事がある。けれど、説明するためだけに言葉を用いるのは魅力的だろうか。言葉が存在する意味はもっと広いはず。

伝えるにも相手に説明するだけでは、内容だけ伝われば良いという目的で文を書いている気分になってしまい、そうするとペンがなかなか進まない。

 

口数があまり多くない父と会話をする時も、父が口にする言葉は少ないから、どういう理由でそう言っているのか、どんな心境なのか、父の言いたい事は何なのかと頭を使い、昔からそうやって話を聞いていた。

幼い頃は意識していなかったけれど、今考えるとそれは決して他の人と話す時には得られない不思議な感覚だった。

少し言葉が足りないくらいの方が、自分で想像をふくらませて相手の言葉を埋めてみよう、補ってみようとする。

音楽でも、大きい音は何も努力しなくても聴こえるけれど、今にも消え入りそうなかすれた音は、耳を澄まして聴こうとする。

はっきりと視界に入るものはあえて見ようとしないけれど、ぼんやりとかすかにしか見えないものは、身を乗り出して目を凝らして見ようとするように。

 

文章をとらえるアングルを少し変えてみると、ストレートな言い方を使わず少し分かりにくい書き方も取り入れることによって、読む人へ考える余裕と想像する隙間を与えられるのかもしれない。

読んだ人が間違った解釈をしても構わない、というわけではないけれど、あまりにも確実な書き方できちんと分かりやすくまとめてあると、それは「こう理解しなさい、受け取りなさい」という強制になりかねない。

多分、自分にとって文章を書く事は「相手に伝わる事」が願望ではあっても、目的ではないのかもしれない。音楽においても、それ自体が目的では、聴衆への押しつけになってしまい、演奏者の自己満足と捉えられても仕方がない気がする。

 

以前は、文章で音楽について表すことは自分にとってはそんなに重要ではないと感じていた。

言葉で表したら具体的にはなるけれど、なんというか解説みたいになって、相手に自分の価値観を植え付けるしまうかもしれないという不安からだ。

 

就職活動などでも、やる気や熱意は心の中にあるものだから、全面に押し出してアピールするものではないのではと感じている。

意識的ではなく、心に大事にしまっておいてもきっと自然と表れるのだろうし。

かすかに見えるくらいの方がかえって良いかもしれない。

ぼかされた物を、普通の見方でただの見えにくい面倒な対象と捉えるか、良さと捉えるのか。人それぞれだと思う。

正確さと具体的な意味を常に求められる世の中では、難しいかもしれないけれど。

 

新しい人と出会う時も、本当は色々あれこれ質問してその人がどんな人なのか知りたいのだけれど、あえてそこを少しグッとこらえて一歩ひいてみる。

その人がいったいどんな人生を歩んで来たのか。

その人の頭の中にはどんな事がグルグルしているのか。

と、こんなことを想像するのも素敵な事ではないだろうか。

 

逆に相手にも、最初から自分の事を事細かにいちいち説明はせず、相手のペースでだんだん自分の事を知ってもらう。

これも「知り合う」という事なのかもしれない。