波に乗れなかったとしても


この数ヶ月、文章を書くことから遠ざかっていたように思う。いや、半分は意識的にだから遠ざけていたのかもしれない。色んな事に挑戦しては拒絶されて「新しい事に挑む勇気」も「今やっている事を続ける覚悟」も両方失った自分がいて。

 

こういう書き方をすると誤解を生んでしまいそうだけれど、私は人と話せば話すほど言葉が思い浮かばなくなる。創るものじゃなくて、浮かんで来たものを言葉におこしているものだから、喋ってしまうともうそこで済んでしまう。だから、幸いにも自分の話を聞いてくれる人がいたり、共鳴してくれる人がいるとそこで解決してしまうという。だから、逆になかなか伝わらない相手くらいの方が、もどかしくなって苦しくなって文章になるっていう事なのかもしれない、分からないけれど。

誰にも話す事が出来なくてどこにもぶつけられずに苦しんでいたはずなのに、その葛藤によって言葉が生まれるとは。音楽で表現する事に行き詰まって、唯一やってきた音楽でさえ自分を支えられなかった時に文章に身を委ねてみたら、言葉がぽつり、ぽつりと生まれて来た、その感覚を今でももわ〜んと覚えている。

 

文章を書くようになる前は、文章というのは頭が整理されていないと書けないものだと思っていた。あるいは、書く事によって整理されたり、整理するために書いたりするものだと。口にしたり誰かに話す事によって整理されたり、自分の考えている事がはっきりするのもそれに近い事だと思う。

でも、最近なにかを人を話す事によって自分が見えてなかった自分の中のが見えて来て、ぼやけていていたものが浮き彫りになって良かったように思えたのに、どういう訳かそれによって思考回路が止まってしまったのだ。それで文章もすっかり書けなくなってしまった。

 

 

本番で上手く行かなかった時も、本番が終わってみんなとパーッと打ち上げをして忘れてしまう事も出来る。でも私は一人家に帰り、色々くよくよする。ベッドの中でうずくまって、もう二度と人前で弾きたくない、舞台に上がる事なんて出来ないと声を出さずに泣く。

みんなは「そうやって毎回本番の度に落ち込んでたらきりないじゃん。」と言う。

けれど、そうやって毎日起きる全ての事に自分の感情を任せて生きる事しか出来ない。何にも動じない冷静な自分は舞台の上でだけで精一杯で。今にも切れそうな電池で動いている自分に新しい電池を入れてあげる事に意味を感じなくなって、もうこのまま電池切れてて止まっちゃって良いんじゃないかなどと思って、毎朝起きるとかろうじてでも動いてる自分は、どうやって時間を使ったら良いか分からない。与えられている授業や仕事も、自発的に取り組む練習も、自分の心の鏡には全てが薄っぺらく映って、それって時間を使ってはいるけれど、「生きている」って言えるのか。

 

 

なんというか今は、何に対しても一歩を踏み出せないような心境にいる、本当に。

でも自信を喪失したとかとはまた違う、何か。無心で、そして無欲にひたすら続けてきて良かったと、ピンク色に染まった空を見ながら思う。そういう感覚が小さい幸せ。オスロの夕日と、謙虚につつましく生きたいという感情がきっとうなずき合っている、そんなように見えた。

周りが進んでいように見える時こそ、じっくり耐える時期なのかもしれない。