続けることの中にも、変化がある


ヘルシンキに来てすぐにiPodが壊れた。

自分は、いつでもどこでも音楽と共にいた。

待ち合わせ場所で待つ5分でも、つい音楽をかけてしまう。

 

気がついたらかけているという感じなので、

聴いているというよりは、聴こえているという言い方が正しいかもしれない。

 

そんな、常に音楽を聴いていないと耐えられないくらいだった私は、

すぐにiPodを修理に出そうと思ったのだけれど、

しばらく音楽無しの生活を送ってみようかな・・

となぜかそんな事を考えて、結局修理には出さない事にした。

その生活を続けてもう3ヶ月。

 

最初の数週間は禁断症状というか、とにかく苦しかった。

でも「音楽が好きだからかな」ぐらいに思っていた。

 

ヘッドホンをつけていた自分は、音楽によって外界との壁が出来ていた。自分の世界に没頭して、余計な事を考えず、無駄なく自分の時間や労力を費やすことができていた。

 

でも、それってちょっと淋しいことなのかもしれない。

 

音楽を聴いているのではなく、実はただ外の音をシャットアウトしているだけ。

しかしそれでは、結局自分の声すら聞こえなくなってしまう。

 

自分が音楽を常に聴くようになったのは中学生の時から。

通学途中の、

バスの中の必要以上に流れるアナウンス、

電車の中の聞こえてほしくない会話、

薬局の前を通るたびに聞こえる騒がしいラジオ、

ティッシュ配りのお姉さんの高い声、

電光掲示板から聞こえる大音量のCM、

 

そういうものを耳に入れたくなくて、音楽を聴き始めた。

なんでこんなごちゃごちゃした世界に生きているんだろうと思っていた自分は、

目をつぶって歩く事はできないから、せめて耳はふさいでいたい。

そう思って、音楽が手放せなくなった。

 

 

でも、オスロでiPodが壊れた時も思ったけれど、

世界中が、うるさい世界という訳ではないのだ。おだやかな街もある。

もちろん無音なわけではない。車のクラクションの音もするし、週末になれば中心部には人が集まり騒々しくなる。

けれど、雨の音がするし、雪の日は雪が降る音を感じる。そこに人々が仕事へ向かう足音、そして家へ帰る足音が混じっていく。

 

うるさいか、静かか。

音が小さいか、大きいか。

 

の違いではないのだろう。

 

そういう生活の音が自分の中でスッと受け入れられるようになってから、その街の匂いや、夕暮れの暗さだったり、練習を終えて夜帰る時に感じる首筋に入ってくる冷たさも、一つ一つの小さな何かに気づかされる。先日も、雪がやまない日に練習のために外に出るのはとても憂鬱なのだけれど、重い腰をなんとかあげて出かけて、帰りのトラムの停留所で待っていたらコートに雪の結晶がひらひらと舞い降りて来た。あまりに綺麗で、寒いからすぐ溶けないでしばらくの間そのまま腕の上に乗っていた。

きっと音楽を聴いていたら、そういう事にはきっと気付かず1秒でも早くトラムが来てくれる事だけを考えていたかもしれない。

 

最初は雑音を聞こえないようにして、ただ好きな音楽を聴きたいだけだった。

そのうち周りに流されやすい弱い部分を覆い隠すために、周囲の存在を見えないようにして、埋もれそうな状態から這い上がろうとした。

音楽と同じように、何事に対しても、

好きな事、都合の良い事だけを選んで、自分の周りに残していく。これから先自分がそんなずるい生き方をしていってしまうような不安も感じていた。

何にも惑わされない、我が道を突き進むイメージを守りたかっただけなのかもしれない。

 

そのうちしばらくしたら、また音楽をずっと聴くようになるだろうけれど、

また違った音楽との向き合い方が出来ると思うとちょっと楽しみである。

自分が無意識に続けていた事を、たまにはふと立ち止まって考えてみる必要性もあるよね、と今回は考えさせられた。