自分に問う、自分の中の変化


大きなスーツケースを持って一時帰国。

帰国の理由は特になかった。でも帰国すべきだと感じて、迷わず航空券をとった。

だからといって、今回の帰国で何をしなければとか、何を決めなければとか、特別そういう事はなかった。

でも、このままで良いのだろうか、その気持ちは強かった。

 

むし暑い日本にわざわざ帰って来る必要はなかったのだし、ここ数年は毎夏ノルウェーで涼しい夏を満喫していた。

 

一時帰国のときは、今しか会えない、次いつ会えるか分からないという気持ちになるもの。

久々に親しい人達と会えるのはもちろん嬉しい事で、人との繋がりを続けていきたいという思いは今までも、そしてこれからもあるのだけれど、会えたら良いなという気持ちを持っている事の方が、実際に会う事よりも大切にすべきことなのかもしれない。

 

会える距離になったから、はい会いましょう、ではないかな。どこかそんな気持ちになる。

自分の考えに、少しずつ変化が起きる。

 

遠くにいながらも近況をたまに報告し合う人たち。

連絡を取り合っていないけれど「今頃何しているかな、元気かな」と思い出す人たち。

 

決して頻繁に会える距離ではないけれど、会う回数は、一番大事なことではない。

 

先週、ふと入った本屋さんで立ち読みをして夢中になってしまった。

立ち読みしたり、新しく出来たお店を通り過ぎてちょっとチェックしたりする。

日本でやっていた日常のことをだんだん思い出す作業。

 

久々に家族と時間を共にする数日間。近所の図書館に行って本を山のように借りてくる。家に帰って読もうとするけれど、つい母とおしゃべりをしてなかなか読書が進まない。母の口からぽつりぽつりと出てくる言葉は温かみがあって、読んでもすぐ抜けていくインターネットにあふれる言葉と違って、いつまでも自分の中に残っていく気がする。

 

日本の生活で入ってくる情報の量は、留学先とは比べものにならない。

目に入ってくるもの、耳に入ってくるものすべてが時差なく瞬時にわかる。理解するためにさほど時間もかからない。

だから、日本語では興味のない情報は素通りしないととても生きていけないような感覚になる。ちゃんと自分の中にフィルターがある人ならば、どれだけ膨大な情報があっても混乱する事もなく、冷静に自分のスタイルができていくのかもしれない。自分のスタイルを吸収したものに応じて柔軟に変形できたら、芯がちゃんとあって成長できることなのかなと考えてみたりする。

 

満員電車で色々感じた事を心にとめておいたり、人混みの中を嫌々歩くのではなく、どういう心構えで歩くか、その人混みを歩く日々をどういう姿勢で過ごすのか。そういった事はのどかな北欧で決して考えられないし、今しかできない貴重な時間。

 

人に忘れられてしまう、人との距離が離れていってしまう。

そんな感覚は、生まれ育った街を離れる時、そして慣れ親しんだ土地を離れる時に感じる、ごく自然な感情。

 

その感情は離れている時間が長くなるにつれ、やがて凄く大きな不安と淋しさと涙になる。

帰って来た時に自分の居場所がちゃんと残っているはずなのに、何かが変わって、自分も変わって、昔の自分以外はもう受け入れてもらえないような疎外感を味わう事がある。

それが怖くて、なるべく多くの人たちと会って、留学先へ戻ろうとしていたのかもしれない。

 

けれど、どんなに疎遠になっても、連絡が途絶えても、

 

どこにいるのかな、

何をしているのかな、

 

と心のどこかにいつもいて気にかける存在の人々を、

 

どこにいるのか分からなくても、

何をしているのか分からなくても、

 

幸せでいてくれたら、と心から願っています。

 

帰国した時より、日本からノルウェーに戻る時に「ただいま」と言いたくなる気分になる。

自分の居場所がここにもできたのかな…という嬉しさと、日本が少し自分から離れてしまうような淋しさが混じった複雑な感情がそこにはあるのかもしれない。