響き合う音


当たり前のように行っていた場所に、ぱったりと行かなくなる。
卒業すれば、行く理由はなくなる。
何かが終われば、そこへ向かう必要はなくなる。
自然なこと。
自分にとってもそういう場所がある。
でも、卒業したからっていうだけじゃない。
何年経っていたって、いつだって行けたはずなのに、近づけなかった場所。
遠ざかっていたのか、遠ざけていたのか。
懐かしいという想いだけではないんだろうな。
よく分からない気持ちがぐるぐるする。
何を目の当たりにすることを恐れているのか、きっと自分でもよく分かっていないから。
そういう、自分ではなかなか進めないし、もう今後動くこともないだろうと思ってしまっていることも、
ちょっとした外からの何かのおかげで、たとえわずかでも動くことってあるもの。
母校の先生からの一本の電話。
後輩たちの、コンクールの伴奏を引き受けることになった。
コンクールにむけたレッスンに伴奏者として同行するために母校へ通う日々が続く。
コンクールも、
母校の校舎も、
「伴奏者」としての自分も、
レッスンに通うことも、
なんというか、ここしばらく自分の人生から離れていた場所。
感覚を取り戻すのには、思った以上に時間がかかる。
懐かしい場所は、普通でいようと思っているのに落ち着かなくて、楽譜を入れたカバンをどっちの手で持てば良いかまで分からなくなる。
その電話をもらうまでの自分は、通っていた街の風景を電車の窓から遠く眺めることはできても、
駅にちゃんと降り立って、そこに立っていることを自分の足で感じて、その町並みを受け止めることはできなかった。
留学を終えてから初めてノルウェーに行った時も、思い返してみると行くと決めるまでなかなか踏み出せなかった。
着いたらどういう表情をして街を歩いたらいいだろう、とか考えて、飛行機でも眠ることができなかった。
先生が電話をくださったのは、何かそういうことがあるのかもしれない。
自分はそう思うことにして、感謝をする。
本当のところどうなのかは、そっとおいておけばいい。
後輩たちの姿を見たら、卒業してからの時間の経過を感じたり、若いっていいねと思ったり、昔は自分も夢に向かって頑張ってたなと懐かしくなったりするものかな、と思ったけれど、そういうこととは何か違うように思う。成長なのかよく分からないもので、そういったものをはっきりと表してしまうことがいいのかどうか。ね。少しだけそのままにしておこう。
枯れてしまう前に、また取りにこよう。
若い後輩たちには、これから良いことばかりでなく辛いことも、悔しい想いになることも必ずあると思うけれど、どんな本番も財産の一つとなっていくし、その財産の一つに自分がお供できたことは、嬉しい。
最近思うことは、誰かと会話をする時、相手に助けられていることを以前より感じながら会話をするようになったなぁということ。
なかなかスッとは言い出しにくいことを言葉にできたとき、大きな心で受け止めてくれる相手の不思議な力を感じるのです。
自分の中だけではもやもやして着地できずにいたものが、誰かが方向を示してくれたりして、ストンと来る。
なかなか近づけないと自分の目に映っていた街も、場所も、ある一本の電話がきっかけで、少しずつ向き合えるようになった。
そういうこと一つ一つに感謝をして生きていると、もう外は暗くなっていて一日は過ぎてしまうし、一年も過ぎ去っていく。
卒業してからもう何年だと数えなくても、思い出話をしなくても、記憶力テストのように振り返らなくても、自分の中にたしかに残っている。
あの頃から変わったか、変わっていないか。
どちらなのかを確かめられたら、何かが変わるのだろうか。
自分の気が済むだけなのかもしれない。
大切なことは忘れずに、音楽をやっていきたい。
適当にやりすごしてしまう日はある。
でも、精一杯生きていると色んな色が自分の中に映っていて、その日の気持ちの波や、気温だったり、風の強さだったりで、発する色は変わる。
だから、ぜんぜん違う色に塗り替えることはしなくて良いんだと思う。
友人とこの話をした時、「自分と世界が響き合うこと」と友人は表現していて。
なるほど。私はこの表現がすごく好き。
ある人が奏でる音は、綺麗とか、上手とか、そういうことでなくて、どこかから降って来ているような、ずっと昔から鳴っていたような神秘的な響きがする。
どこの音大らしい演奏とか、どこの国で勉強してたっぽい解釈とか、誰に師事していただろうなっていう弾き方だとか、そういう枠の中に閉じ込められた窮屈な響きではない、狭い音楽ではない、自らが呼吸をしている音。
私がいつか追いつきたくても追いつけないところにある、音。
何かを表現する人はきっと少なからず繊細であるから、「気になる、気にする」という面は不可欠なわけで、気にしないわけがない。だから、「気にしなくていいよ」という言葉はあまり使わないようにしている。
とことん気にして、気の済むまでうじうじしてから、気持ちを整えて、突き進む。
気持ちは切り替えるものではなく、整えるものだと思う。
散らばって乱れた気持ちを落ち着かせるだけで、長い間自分の内に持ってきた小さな気持ちが一本の線のようにずっと続いてることに気付いたり。
なんとなく通り過ぎようとしてしまう場所というのは、きっと誰にでもある。
辛かったりしんどかったりした時期を過ごした場所なら、なおさらだ。
その街で育った人、仕事をしている人、通っている学生、子育てのために移り住んだ人、生まれも育ちも違う街だけれどなぜか好きで休日は必ずその街に出かける人。
そういった人々と出逢えたおかげで、その街に対して身構えていた自分の感覚が少しずつほぐれていって、同じ道なのに歩いていて気持ちがふっと軽くなっている。
今までも自分にとって大切な街だったはずだけど、今ようやく、本当に大切な街になったように思う。
朝、その街の駅に降り立つと、活力というのか何か分からないけれど、今はそういったものを感じることができる。
今回のように先生からの電話がなければ、門をくぐって中へ入る勇気はなかったし、入るきっかけを自分から作ることもなかった。
その先生と、コンサートで共演させていただく機会をいただいた。
自分が何をすべきか、今は少し分かっていると思う。
頑張ります。