幼いころの自分は、なんとなく外国に憧れ、歩いている外国人をたまに見るとドキドキして、テレビで外国にいる日本人が映ったりすると、すごくたくましく見えたものだ。
それが、今こうやって自分がここにいる。
語学も中途半端だし、なんかあった時に助けになる英語も、なんとか使い物になる程度。でも、
カフェでココアを買えて、
郵便局で小包を出せて、
銀行で手続きが出来て、
そんな日常の小さな事が、不思議とできている。来た当初はそれさえ出来なかった。
今思うと、
笑ってしまうような事までできなくて、
笑われてしまうような事までどうしたら良いか分からなくて。
語学のせいだけではない。不安と自信の無さからだ。
怯える必要の無い事にまで怯えて、引っ込み思案になりがちに。
とにかく無性に涙が止まらなくて、コンビニのおじちゃんに心配されてココアをもらった事もあった。
振り返ってみると、ピアノが自分でも実感するくらい変わった(のかもしれない)。
本当に変わったかどうかは分からないし、全てが良い方向に変わった訳ではないのだけれど、少なくとも自分自身はそう感じている。
ノルウェーだからか、外国だからか、それは分からない。多分そうかもしれないだろう。
でも、多分そうじゃないかもしれない。それは自分にとってそれほど重要な事ではない。
うまくなったとか、弾き方がガラっと変わったとかそういう表面的な事ではなく、なんといえば良いだろう。
意識が変わったような。
「ピアノを練習する、弾く、うまくなる」から
「ピアノと向き合う、ピアノと共に生きる」ということへ。
ただ練習してレッスンを受け、きれいなドレスを着て、舞台に立って、頑張ってきた成果を発表していた毎日から、
「芸術家として毎日をどう過ごすか」という事を考えるようになった。練習している時以外も大切な一瞬一瞬なのだと思う。
難しい曲を弾く事にも、
自分の弾いて来たレパートリーを増やす事にも、
他人より上手くなる事にも、
有名な先生や音大で勉強する事にも、
まったく気持ちが向かなくなってしまった自分が、まだピアノを弾く事を必要としているのはなぜだろう。これはやめるべきなのかな。続けて良いのだろうか。どうしてだろう。そんな事を思っていたのは、ノルウェーの受験を決めた18歳の冬だった。
その理由をこの地で見つけた。見つけるのは簡単ではなかった。留学していること以前にピアノをやっている意味も分からなくなって。
けれどそのために、もうここまで来てしまった。今更戻れない。そんな情けなさと自分の意志の弱さに呆然とする。
マイナス25℃の中、雪が振る道を歩き毎日かかさず学校に行き、一日中どんより暗い長い長い北欧の冬を乗り切った後ようやく訪れた春にあったコンサートで、弾き終えた私の心の中には答えがあった。
そんな自分はここ2年間、コンクールを避けて競争の世界から離れ、のびのびと自分の音楽をひたすらやってきた。
それを見て先生が、そろそろコンクールを受けなさいと言って来た。驚いた。
先生は私が自分から受ける事をずっと待っていたらしいが、しびれをきらして言って来たらしい。
「確かに、きみはコンクールの弾き方じゃない。でもそれは気にしなくて良い。きみのままに弾けばいい。ね。」
そういう先生におされ、受ける事を決めた。
アンサンブルや室内楽をやり、今までやってこなかったスタイルの音楽を弾いた。
大変な分、心の底から弾くのが楽しかった。私はそれで良いと思っていた。コンクールなどは自分のやり方ではないのだ、と避けてきた。
けれど、好き嫌いばかり言っていたら、やっぱり自分に合うものだけが周りに残り、心地よいものだけを集めた結果、狭い世界になってしまう。
自信を失ったり傷つくのが怖かったのかもしれない。本気になって、自分の真の実力の低さを痛感する事に怯えていたようにも思う。
控えめに振る舞いながら、実は悔しさでいっぱいだった。とことんやってみようと思う。
目標や夢を持っていても、それが実現するかどうかは誰にも分からないけれど、美しい音楽を奏でる為には努力を惜しまない。
これからあとどれ位ノルウェーにいるか分からないし、自分の気持ちも変わっていくだろう。
来た当初と今が違うように。
実感しながら、そして実感しないところで少しずつ変わっていく。
前よりもっとノルウェーを好きになって、ノルウェーを知った。
前よりもっと日本を母国として大切に思えるようになって、知らなかった面を見れた。
けれど、外国にいても、何年いても、日本人らしさは失わないでいようと思う。
そして自分らしさも。そこだけは曲げちゃいけない。